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唯「Drifter」

  1. 名前: 管理人 2010/11/21(日) 21:58:52
    3 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:13:37.10
    日曜の夜。

    旧型のテレビが流すノイズ混じりの天気予報が、例年より早い冬の訪れを告げていた。
    雲の流れが速い。丸い月が現れては隠れ、ビルの谷間を吹き抜ける木枯らしが女々しい悲鳴を上げる。
    街並みに埋もれるようにして佇む二階建ての古ぼけたアパート。その一室。薄暗い照明に照らされた六畳一間から窓の外を見上げ、中野梓は小さく溜め息をついた。
    明日から、外を出歩くには本格的な厚着が必要になるだろう。そうだ、出勤前にドタバタせずに済むよう、コートの準備をしておかなくては…
    出勤、という言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、梓の胃がずきずきと痛んだ。どす黒い手でみぞおちを絞られるような不快な激痛。小さな口から呻き声が漏れる。
    テーブルの上に、震える手を伸ばす。そこには大小様々、色とりどりの薬が乱雑に置いてあった。カプセル剤、錠剤…市販のものではなく、医師の処方箋だったり、怪しげな通販サイトから入手したものである。
    その中から胃薬をつかみ取り、一つ取り出して口に放り込む。

    しばらくすると激痛は和らぎ、やがて消えていった。


    6 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:17:03.93
    ふぅ…と安堵の息を吐きながら、梓は思う。ここまでなのか。明日から一週間、また仕事漬けの日々が始まることに対し、自分の身体はここまでストレスを感じるようになってしまったのか。
    否、それはストレスというより最早、『拒絶反応』に近かった。

    いかんいかん。ここ数日どうもネガティブな考えに取り憑かれている気がする。
    少しでも薬の量を減らそうと努力していたが、その結果がこれでは話にならない。リラックスしなくては。
    そう思い、またテーブルの上に手を伸ばすと、さっきとは違う薬をつかみ取る。
    精神安定剤。レキソタンの5mg錠。どんな不安も消し飛ばす魔法の薬。
    それを水なしでぐい、と飲み込み、オーディオのスイッチを入れる。

    8 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:21:08.88
    どことなくレトロな匂いのする特徴的な音色のギターと、硬いピックで思い切り弦を弾いたような存在感のあるベースに乗せて、ソウル・ミュージシャンのような吐息混じりの声で男が歌う。

    「Fallen leaves
    I can see the sun is setting early today
    (枯れ葉が落ちる、日が暮れるのも早くなってきた)」

    梓は部屋の隅に寝かせてあったハードケースの蓋を、宝箱でも開けるかようにゆっくりと上に持ち上げる。
    その中に几帳面に収納されていたのは、歯切れの良いサウンドが特徴の赤いフェンダー・ムスタング。梓の相棒とでもいうべきギターだ。

    「So it goes,seasons pass me away but I'm not ready for a jacket
    (季節は僕を置き去りにしていくけれど、ジャケットの準備はまだできていない)」

    肩からストラップをかけて椅子に座り、小さな指でピックを摘む。
    小学生の頃からの、梓の唯一と言っていい趣味。梓が一日の中で唯一至福を感じる瞬間。
    全身を蝕む憂いも苦しみも、全てを忘れられる瞬間。

    9 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:22:57.54
    「Day by day I can feel the wind is getting colder at night
    (日ごとに夜の風が冷たくなっていく)」

    左手が魔法のように指盤の上を這い回り、複雑なコードを押さえる。
    スピーカーから流れる洒落たサウンドに合わせ、右手がカッティングによる小気味良いリズムを作り出す。

    『So it goes,seasons blow me away
    Now I keep my hands in the pocket
    (季節が僕に吹き付けて、僕はポケットから手を出せないよ)』

    憂鬱げな男の歌声に、可愛いらしい梓の声が重なる。
    こんな時梓は、自分が誰かと共にバンドを組み、ステージの上に立ち、ライブハウスの観客に向けて音楽を届けているような、そんな様を想像する。
    それは叶わなかった幼き日の梓の夢。憧れ。ボロボロに打ち砕かれた想い。
    だからこそ、梓は強く強くその光景を思い描く。暴れ馬のように六弦をかき鳴らす。声を張り上げて、歌う。

    『Cloudy sky and winter days
    It gets me down,so I just stay in bed
    And then I smell the scent of green then again
    Spring is just not enough
    (曇った空と冬の日々
    気が重くなってベッドから抜け出せない
    そしたら、緑の匂いがしたんだ
    そうは言っても、春じゃまだまだ物足りない)』

    10 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:24:27.30
    『Waiting for the summer Saturday night
    We will stay up all day all night』

    僕は待ってる、夏の土曜日を。一日中、一晩中、起き続けて…か。

    幼い自分は夢見ていたと思う。命を輝かす青い春、そしてその先にある深緑の季節。目に映る全てのものが美しく光り輝き、世界中が歓喜の叫びに満ち溢れているかのような…そんな時期が、自分の人生にもきっと来るのだろうと思っていた。無邪気に、頑なに、来ると信じていた。
    ところが自分には、光の季節はやっては来なかった。
    梓の中の時計の針は、あの中学時代から止まったまま動いてはくれない。ずっと夏を待ち続けても、梓の心の中には今日もただ終わらない冬があるだけ。今、窓の外に浮かぶあの寒空のように。

    梓の精神は、その考えに取り乱すでもなく、地に伏して戦慄くでもなく、ただ、それを事実として受け入れていた。何の動揺も焦燥もなく、ただ受け入れていた。
    梓には、それが薬の作用なのか、それとも心の底からのある種の諦めが為せる業なのか、自分でもよくわからなかった。わからないまま、ただただ手を動かし音を出すことに没頭していった。

    13 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:31:51.55



    小学校四年生の時。
    ジャズバンドをやっていた父親の影響で、ギターを始めた。幼い梓にとって、ぴんと張られた六本の弦はどんなゲームよりも漫画よりも魅力的な、魔法の玩具だった。
    初めて押さえられるようになったコードは、Eだったか、Gだったか。
    自分の左手で押さえる弦が、小さな指で押さえる弦が、調和のとれた和音を鳴り響かせているのが不思議で信じられなかった。
    その日は自分の部屋で一晩中、顔を輝かせながら簡単なコードを延々と鳴らし続けていた。綺麗だな。なんて綺麗なんだろう。そう思いながら。

    手の小ささなど気にならなかった。梓は練習に練習を重ね、中学校に入学する頃には父の周囲の大人達が驚き、天才と褒め称えるほどの腕前に達していた。
    その頃から、夢が出来た。誰かとバンドを組みたい。四、五人、いやスリーピースでもいい。それが無理なら二人のユニットでもいい。
    とにかく楽器を弾くことの感動を、音を出すことの感動を分かち合える人と一緒に、何かを奏でてみたい。そしてそれが、願わくばリスナーに勇気や希望、安らぎを与える音楽になればいい。そんなことを考えていた。
    だから中学では迷わず、軽音楽部に入部した。希望に満ち溢れた季節が、これからの自分の行く先には待っている。そんな確信めいた予感に心躍らせながら。

    14 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:36:46.17
    そこで梓は、酷いいじめにあった。

    軽音楽部の先輩達は、皆中学から楽器を始めた人ばかりで、梓は入部当初から既に部内のギターパートの誰よりも技量があった。
    とはいえ、それを得意に思ったり先輩を見下したりしたことはない。ただ始めるのが早いか遅いかの違いで、誰でも練習すればある程度のレベルにはなる。自分も何か役に立てれば。先輩方の上達の助けになれば。その一心で一生懸命にアドバイスをした。練習にも付き合った。
    しかし上級生からすれば、それが気に入らなかった。
    ただでさえ艶やかな長い黒髪と可愛いらしい顔立ちで目立つ一年生に、ギターの腕前ですら勝てないとなると面目は丸つぶれである。
    それを鼻にかける様子もなく、あまつさえ悪意なく助言まで与えてくる優等生的な態度に嫌悪感や嫉妬心を抱いても不思議ではない。

    自らが純粋すぎたがゆえ、透明すぎたがゆえにその事に気付けなかった梓は、次第に部内での居場所を無くしていった。
    結局、入部から一ヶ月足らず、結局一度も他人と一緒に演奏することのないまま、梓は軽音楽部を退部した。

    15 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:38:41.87
    その時に負ったトラウマは、少女のか弱い精神をズタズタに引き裂いてしまった。

    人付き合いは苦手になり、すぐに学校へも行かなくなった。
    人前でギターを弾くこともしなくなった。心を閉ざし、自分の部屋に引きこもって、そこで延々と弾き続けた。常に右手と左手を動かしていなければ、それらを別のこと―例えば鋭利なカッターで手首をザクリと切りつけたり―に使いそうで恐ろしかった。
    少女は妄想の中に沈んだ。自分の夢が叶った妄想。自分が心通じ合う仲間と共に、ライブハウスのステージの上でアンサンブルを奏でている妄想。
    そんな妄想とともに演奏に没頭している間だけは、悪しき思い出もこれから先の人生への不安も全て、忘れることができた。

    親に精神科へ連れて行かれた。様々な薬も、この頃から服用し始めた。
    精神安定剤、レキソタン。睡眠薬、ハルシオン。眠り病と偽って手に入れた合法覚醒剤、リタリン。
    薬漬けで精神をコントロールし、ただひたすらギターをかき鳴らす。そんな生活が六年近く続いた。
    高校は一応、通信制を卒業した。
    その後、これでは本格的にダメだと思い直し、親の反対を押し切って、実家から離れたこの街の小さなアパートで一人暮らしを始めた。それがつい八ヶ月前の話だ。
    仕事も見つかり、引きこもっていた頃に比べれば幾分マシな精神状態にはなったものの、未だに薬なしでは生きられない。

    その上今度は職場で、梓に対する風当たりが強くなってきていた。
    どうも彼女が引きこもりだったという噂が、社内に広まってしまったようだった。自分を嘲笑する同僚たちの内緒話を、梓は聞いてしまっていた。
    梓は勉強はさっぱりだが元々頭はよかったので、仕事は出来るほうだった。またしてもそれが妬まれていたのかもしれない。

    いつかはこうなるかもと半ば覚悟していたことなので、もう中学の時のようなショックを受けることはなかったが、それでもストレスで胃は痛んだ。
    辛いというより、情けなかった。他人を卑下する事でしか自分の存在意義を見出せないような人達が、たまらなく嫌だった。しかし自分はそんな人達にも嘲笑されるような立場の人間なのだと思うと、諦めにも似た無力感が襲いかかってきて、瀕死の病人のように体の力が抜けた。

    この世間に、世界に、人生に、全てに、彼女は絶望していたのだった。

    16 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:45:56.50
    ドサッ!



    何か柔らかいものが路上のアスファルトに激突したような音が窓の外から聞こえて、梓は目を覚ます。
    時計を見ると、夜中の十二時を少し回ったところだった。
    さっきレキソタンを服用して二、三曲弾いたあと、シャワーを浴び、ハルシオンを飲んで寝たはずだ。なんだか悪い夢を見ていた気がする。
    なぜ目が覚めたのだろう。梓は考える。
    確かにハルシオンは強力だが、その効能は寝つきをよくする「スピード型」の睡眠導入剤であり、長く深く眠れるようになる「スタミナ型」ではない。夜中にいきなり覚醒するというのもありえない話ではないだろう。
    しかしそれにしても不思議なほど寝覚めが良すぎる。ほんの少し頭がぼーっとしているだけで、歩けないほどではない。
    切れがよい反面、夜間起床時には一過性健忘やもうろう状態などの副作用が出やすい薬だったはずだが…効き目が薄れてきたのだろうか。
    また量を増やさなくてはならないのか。梓は溜め息をつきながら、何か頭の隅に引っかかるものを感じる。

    違和感の正体は、すぐに梓の耳に飛び込んできた。
    ずり、ずり…という音。窓の外、部屋の真下から聞こえる、何かを引きずるような音。路上をゾンビが這い回るような音。
    ゾンビの妄想をいつまでも留めておくほど梓は子供ではなかったが、代わりに現実的な懸念として「泥棒か何かではないか」という考えが脳裏によぎる。梓は青ざめた。

    窓を開けて下を覗こうとするが、丁度ベランダの真下に隠れるような位置から音は聞こえている。ここからではよく見えない。
    玄関のドアをそっと開けると、天気予報の通りの冷たい空気が肌に触れた。恐怖と相俟って、背筋に悪寒が駆け巡る。冷たい手で泥棒退治のための金属バットを持って息を潜め、震える足で恐る恐る非常階段を下りる。

    そこには、人間が倒れていた。

    18 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:55:16.97
    倒れてはいるが、意識はあるようだ。どこかへ行きたいのか、汚い路上をほふく前進のような形で懸命に這って先へ進もうとしている。だが健闘虚しく、体は一向にその場所から動く気配を見せない。
    足がふらついて立てなくなった酔っ払いだろうか…と、最初はそう思った。
    しかしそれにしても様子がおかしすぎる。ただの酔っ払いだとしても、こんな日にこんな状態の人をこのまま放っておいたら、確実に凍死は免れないだろう。朝起きたら自分の部屋の真下に死体が転がっているというのは、あまり気持ちの良い話ではない。

    梓は相手が多分女性で、自分とそう変わらない背格好だということを認識すると、「あの…大丈夫ですか?」と声を掛けつつ近付いていく。
    特殊な状況とはいえ、見知らぬ人間に自分から話し掛けるというのは、人付き合いの苦手な梓には経験のないことだった。それだけで頭が真っ白になる。
    近付くにつれて、その女性の異様な姿が街灯の明かりにはっきりと浮かび上がってきた。
    やせ細った身体に汚いTシャツを着て、その上からこれまたボロボロの大きなコートを羽織っている。
    この寒い中、手袋もマフラーもしていないどころか、靴すら履いていない。
    砂利まみれの足には所々に小さな切り傷があり、流れ出した少量の血液が冷たいアスファルトに黒く染みを作っている。
    乱れに乱れたボサボサの茶髪に隠れて顔はわからないが、きっと痛みと寒さで真っ青だろう。
    ただの酔っ払いと呼ぶにはあまりにも異常で凄惨な光景。
    「だ…大丈夫ですかっ!?しっかりしてくださいっ!」
    ようやく事の重大さを理解した梓はバットを投げ捨て、慌てて女性を抱き起こす。

    19 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 22:57:46.85
    アルコールの匂いは一切しない。代わりに漂ってきたのは、つんと鼻をつく刺激臭。多分何日も、いや何週間も風呂に入ってない人間の臭いだ。
    うっ、とこのまま胃の中身を全部ぶちまけてしまいそうな不快感を覚えるが、必死に堪えて女性の身体を揺さぶる。
    「う、うう、うーん…」という声。遠くに行ってしまいそうな意識を、懸命に自分の元に繋ぎとめているような呻き声。
    しかし梓が驚いたのは、その声が非常に若く可愛いらしかったということだ。思わず女性の髪を右手でかき上げ、顔を覗き込む。
    たしかに真っ黒に汚れてはいたが、顔の造り自体はかなりの美少女だった。年齢も、先日十九になったばかりの梓よりほんの一つ二つ上といったところだろう。
    梓はさらに困惑した。酔っ払いでなければホームレスか、と予想していたが、ここまで若い、しかも女性のホームレスがいるものだろうか。
    しかし梓の思考を遮るように、目の前のボロボロの美少女がかっと目を見開き、梓の顔を凝視する。ぱっちりと大きな、吸い込まれそうな瞳。
    彼女は空を掴むように手を伸ばし、苦しそうな声を発する。
    「ご…、ご…」

    「ご?なんですか?しっかりしてください!とりあえず寒いので中に入りましょう。肩を貸すので立てますか?」

    梓は努めて冷静な対応を心がける。自分に医学的知識は皆無だが、長時間外を歩き続け低体温症で倒れたことは明らかだ。それなら暖かい部屋の中に入れて、体力を回復させてやれば…

    「ごはん」

    「えっ?」

    「ごはんはおかず。炭水化物と炭水化物の、夢のコラボレーション。うう、おなかへったよぉ…」

    予想外のひとことに、梓は唖然とした顔を相手に向けることしかできなかった。

    21 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:09:49.64



    時刻は、午前二時に差し掛かろうかというところだった。
    炭水化物と炭水化物の夢のコラボレーション。
    初対面でいきなり謎の言葉を残した行き倒れの美少女のお望み通り
    握り飯をたんまりと握って与え、インスタントラーメンによる炭水化物同士のコラボレーションを完成させたあと、ついに悪臭に耐えきれなくなった梓はユニットバスにお湯を溜めて少女をブチ込んだのだった。
    凍傷になりかけてうまく動かない両手で、差し出された握り飯を片っ端から口の中に放り込む彼女の顔を、梓は思い出す。
    あれほど「目を輝かせる」という言葉がぴたりと当てはまる人間の表情を、未だかつて梓は見たことがない。少なくともここ数年の梓があんな顔をしたことは一度たりともないだろう。

    ユニットバスのドアが開く。バスタオルを巻いた少女が現れる。
    数週間溜まった汚れを徹底的に洗い流した姿は、先程までとは別人だった。
    やはり、相当な美少女であることに疑いはない。ボサボサだった茶髪も今はしっとりと濡れて艶やかに光っていた。
    梓の使っているトリートメントは良物なので、乾けばサラリと流れるような質感になるだろう。

    22 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:15:17.22
    轟!と突風の吹きつける音が外から聞こえる。
    はっ、と我に返った梓は、彼女のあられもない姿から慌てて目を逸らし、ドアの前に畳んで置かれた可愛いらしいTシャツとジャージ、そして下着を指さす。
    「えーと…着替えはそこに置いてあります、私の服なので少し小さいですけど」
    「とんでもない!何から何まで至れり尽くせりで幸せだよぉ、こんな行き倒れを救ってくれて、何とお礼を言ったらいいか…」
    梓より一つ二つ年上に見える少女はしかし、まるで小学生のように幼く明るい口調の持ち主だった。
    他人と馴れ馴れしく喋ることや、感謝の意を述べられることに慣れていない梓には、それが少しくすぐったく感じる。

    「いえ、大したこと、してないですから」
    本当に大したことはしていないと思う。家の前で死なれるのが困るから助けただけだ。
    行き倒れた…という少女の言葉に少し引っかかりを感じるのは確かだが、あえて追求してみるほどの勇気はない。そこまで他人の事情に興味も持てない。
    着替え終わった少女にドライヤーを手渡す。ありがとう、と彼女は朗らかに答え、スイッチを入れる。濡れた髪がぱたぱたとはためく。
    とりあえず今夜は(と言ってももうすぐ夜も明けるが)この部屋に泊めて、明るくなったら出ていってもらえばよい。着なくなった服と、余りの毛布と、段ボールくらいならまあ施してもよかろう。
    彼女には本当に悪いが、その後どこかで餓死しようが凍死しようが知ったことではない。赤の他人を助ける義理など自分には元々ないのだから。

    「ね?お名前なんていうの?」

    梓の思考を、歌うように無邪気な声が遮る。

    23 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:17:07.46
    謎の美少女からの突然の質問に、梓の返事は裏返った。髪を乾かしていたはずだが、いつの間にかドライヤーの音は止まっている。
    「え、あ…なかの…」
    「なかの?」
    「なかの、あずさ、と申します」
    別に私の名前なんて知らなくてもいいだろうに、と心の中では思うが、ついつい丁寧に答えてしまう。
    「あずさちゃんか、うーん…」
    少女は顎に手を当てて困った顔をする。
    いきなりちゃん付けか、しかも何を一生懸命悩んでいるんだろうこの人は、と梓が思っていると

    「あっ、思いついた!」
    少女の表情がひまわりでも咲いたようにぱっと明るくなる。
    「な、何をです…」
    混乱した頭で梓が問いかけるより早く

    「あだ名はあずにゃんで決定だね!」

    「へっ?」

    本当に晴れ晴れとした顔で、本当にわけがわからないことを彼女はのたまった。

    24 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:20:18.07
    唖然とした梓の顔を見て
    「なんとなく猫に似てるからあずにゃんがいいかなって…気に入らなかった?」と心配そうな少女。

    「い、いや、あの…」
    あだ名?一体全体どういうことだ。この人は私と仲良くなりたいのだろうか。何のために?どうせ夜が明けたら赤の他人ではないか。
    ていうか、あずにゃんって何だ。愛称をつけるにしてももう少しマシなのがあるだろう。なんとなく猫に似てるってどういう意味だ。
    無数のツッコミがぐるぐると脳内を回るが、うまく言葉にして発することができない。
    完全に相手のペースに乗せられていた。

    「ねえねえ、誕生日は?」
    「えっ…と、十一月十一日ですけど、それが何か…」
    「血液型は?」
    「ええと、…ABです、はい」

    天然不思議系美少女の質問に、しどろもどろになりながら答える梓。
    なぜ今日知り合ったばかりの他人にこんなに簡単に個人情報を教えているのか。梓は自分がよくわからない。この人なら悪用したりする心配はないだろうと心のどこかで気を許しているのだろうか。
    馬鹿馬鹿しい。梓は段々イライラしてきて、心の中で悪態をつく。自分以外の人間を信用するなど、中学以来の梓にとって有り得ないことだった。

    27 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:22:36.24
    「じゃあじゃあ、好きな食べ物は…」

    「それを聞いてどうしようってんですか。もう静かにしてください」

    次々と流れ込んでくる言葉の奔流に栓をするかのように、梓はぴしゃりと言い放つ。
    コミュニケーションが苦手な私が、これだけはっきりと文句を言えるなんて、と自分で少し驚いたほどだった。
    が少女は、ん?と可愛らしい顔で小首を傾げるばかり。まるで宇宙人とでも対話しているかのようで、ますます腹が立ってくる。

    「あの、もう寝ませんか?夜も遅いですし」
    わざとらしく時計を見て、梓は提案する。
    「あ…そうだね」
    流石の常識外れの少女も、二時十五分という時刻が普通は睡眠に充てるものであるという認識はあったらしい。
    梓は心底ホッとしてベッドに潜り込み「じゃあ、電気を消しますよ」と言おうとした刹那
    「ちょっと待って、私はどこで寝ればいい?」
    「え…」

    そうだった。うっかりしていた。今夜は少女を泊める、などと言っても、一体どこに寝かせればいいのだろうか。
    梓の部屋は狭い六畳一間で、その大半をオーディオ機器と長方形のテーブル、ベッドが占領している。
    ベッドの横に布団を敷くにはテーブルを動かして壁に立てかければよいのだが、テーブルの上にはパソコンを始め様々な生活必需品が乱雑に置かれており、今からそれらを全部どかすのは非常に面倒くさい。
    かと言って他に布団を敷けるスペースなど見当たらない。とくれば…
    少女もそんな梓の表情から全てを察したのか、とびきり嬉しそうな笑顔で

    「うん、あずにゃん、一緒に寝よっか」

    梓は長い長い溜め息をついた。多分、ここ数年で最大級の溜め息だった。

    28 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:27:25.22
    誰かと一緒に寝たのは、小学校の時以来だろうか。あの頃は毎晩、両親と三人で川の字になって寝ていた。梓は真ん中で、どちらか片方でも開いていると、わけもなくただ恐ろしかった。
    自分の両側に人間がいることで、自分はこの世の全ての恐怖や災厄から守られているのだという温かな確信めいたものを抱いていたのだった。
    それは遠い日のオルゴールのように、胸の奥に染み渡る大切な記憶。懐かしく、柔らかな記憶。

    しかし、家族以外の人間と同じ布団で寝るのは、本当に生まれて初めてだった。
    小柄な女とはいえ、シングルベッドに二人というのは非常に窮屈なものだ。
    ボディソープの甘い香りをほんのりと纏った少女は、梓の体にぴたりとくっついてくる。確かに暖かいが、鬱陶しさのほうが大幅に勝っている。それに何だか恥ずかしいのだ。
    「ちょ、あんまりくっつかないでください!」
    「そんなこと言ったって、狭いんだよぉ」
    とか言いながら、心底楽しそうな症状を浮かべている。
    「ね、あずにゃん、やっぱり私眠くないや、朝までお話しようよー」
    「い、いやです!お断りします!」

    少女が喋る度、歯磨き粉の良い匂いがふわりと漂ってくる。
    修学旅行中の夜の女子高生みたいなテンションだな、と思う。もっとも梓は修学旅行など行ったことがないので、自分の勝手な想像の中での話だが。

    29 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:29:19.30
    「この期に及んで何を話そうっていうんですか、さっさと寝ましょう」
    「えー、あずにゃーん、ねぇー」
    「なんでそんなに無遠慮で馴れ馴れしいんですか…それといつの間にかその変なあだ名を定着させようとするな!」

    完全無視して寝るのは簡単なはずだが、生真面目な梓は彼女の言動全にいちいちツッコミを入れてしまうのだった。要するに、全てにおいて相性が悪かった。どう転んでも向こうにペースを握られてしまう。非常に苦手なタイプだ。

    「しかもですね…あなたは私に色々質問して来ましたが、私はあなたのことをこれっぽっちも知らないんです。素性も一切明らかになりませんし、どうして外で倒れていたかも知りません…別に知りたくもないですけど。だから話すことなんて何もないです」

    梓の長々とした説明を頷きながら最後まで聞いていた少女は、どういうわけか少し寂しそうな表情を浮かべ
    「そういえばそうだね、私のこと全然話してなかったね、あはは」
    しかし、それも一瞬で元の優しげな笑顔に戻り
    「私の名前は、ユイ、っていうんだよ。よろしくね、あずにゃーん」

    30 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:31:23.60
    ユイ。
    それがこの謎の行き倒れ美少女の名前。
    いい響きだな。ぼんやりとそんな事を考える。
    どんな字を書くのだろう。結衣、優衣、由衣…
    自分だったら一文字で『唯』とつけるだろう。というか、それがこの人に一番合っている気がする。唯我独尊の唯。唯一無二の唯。

    「ふ、ふん。それだけですか。名前だけですか。私はフルネームの他に誕生日や血液型まで話したのに。不公平ですっ」
    梓は自分が何を言っているのか、本当によくわからない。RPGで言うなら、まさに「あずさはこんらんしている!」という状態だ。

    少女は、唯は。
    そんな梓の糾弾に対し、優しい笑顔を一ミリの崩さず、まるで歌うように軽やかに言葉を返したのだった。

    「ごめんね、私、自分のこと、名前以外は全然覚えてないんだよ」

    予想外の返答に、梓は数秒間硬直した。

    31 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:38:46.47
    「え…ど、どういうことですか。自分の名前しか覚えてないって、意味が…」

    「この前の前の年の夏ぐらいかな…それより前の記憶が、私にはないみたいなんだよ」

    「ええっ!?」
    梓はがばりと寝返りを打って、唯のほうに向き直る。
    要するにこの人が言いたいのは、記憶喪失…ということなのか。確かに世界にはそういった人も少しは存在するのかもしれない。
    しかし、テレビのドキュメンタリーをぼんやり見るのと、実際にそのような人物に遭遇するのとではわけが違う。
    本当に記憶が、つい昨日までの出来事が、綺麗さっぱり頭の中から飛んでいってしまうというような事があるのだろうか。想像もつかない。

    32 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:40:00.58
    唯は遠くを見るように
    「気付いたら砂浜に寝転んで星を見てたんだよ。それが最初の記憶かなー。海がすっごく綺麗なところだったよ」

    綺麗な海?この街にも一応砂浜はあるが、人口の多さに比例してかゴミだらけでお世辞にも綺麗とは言えない。

    「荷物も何もなくって、最初は、自分の名前すらわかんなくて…でも、ポケットに入ってたハンカチに『ゆい』って書いてあって。だから多分それが私の名前なのかなって」

    「それって、この街じゃないですよね?」
    「うん、すごく遠いと思うよ」
    「どうやって、ここまで来たんですか?」
    「ずっと旅してきたんだよー。野を越え山を越えってやつですな。えへん」
    「旅…ですか」
    「うん。自分の家に帰りたいからね」
    平坦な調子だったが、そこに秘められた決意の色を、梓はかすかに感じる。
    「アテはあるんですか?」
    「ないよぉ。自分の名字も知らないし住所も電話番号も…それに」

    「家族や友達との思い出だって、なんにもないんだよ?あはは」
    こちらに笑顔を向けたまま喋る唯の声が、わずかに震えたような気がした。

    アテのない旅。何も情報のない状態で、どこにあるのかもわからない自分の家を探す、絶望的な旅。
    それはもはや旅とは言えないのかもしれない。彼女は旅人…Travelerではなく。
    そうだな、あえて言うなら、『Drifter』…漂流者。放浪者。そう呼んだほうが正しいのかもしれない。

    外の風の音が強まる。布団の中で、二人の体温が混ざり合う。
    一人で寝るより、ずっと温かかった。しかし、いつの間にか梓の眠気はどこかへ吹き飛んでしまっていた。

    33 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:42:29.24
    「…今まで、どうやって生活してたんですか?」
    やっと言葉を絞り出すようにして、梓は訊ねる。
    「行く先々の街で、ホームレスさんに食べ物や服、わけてもらったり。コンビニで賞味期限切れのお弁当を貰ったりかな。
    寝床はいろいろ。雨風をしのげる駅の構内がいちばん多いかなー。あっ、でも雨が降ると体を洗えるから結構貴重なんだよー」
    ずっと暖かい自室でぬくぬくと暮らしてきた梓には本当に想像がつかない。すさまじい生活だ。

    「そうだ。警察には相談したんですか?家族が捜索届けとか出してたりするかもしれないじゃないですか。警察の力を借りれば、案外すぐ見つかるんじゃ…」
    「お巡りさんにも聞いてみたけど…むりだったよ」
    「どうして?」
    「交番に行ってもホームレスさんと間違われて門前払いなんだよー。いやまあ、間違いではないんだけど。
    けど一度なんかは『お嬢ちゃん、お金あげるからおじちゃんといいことしよっか』とか言われて。怖くなって逃げてきちゃった」
    「マジですか…」

    梓は呆れた。国家権力の腐敗というのは、ここまで進んでいるものなのか。下手をしなくても訴訟起こせるレベルである。警察を信用できなくなっても無理はない。

    呆れ果てて、その次に、段々怒りが込み上げてきた。職務を全うせず挙げ句の果てに少女と売春しようとした警察官に対してではなく、唯本人に対しての怒り。
    梓自身にも、その怒りの意味が全くわからない。どうも今日は、自分で意図せぬ感情が次から次へと湧き出てくる気がする。
    しかし、腹が立つのだから仕方がない。


    なぜ、この少女は笑っているのだろう。

    いきなり記憶のない状態で見知らぬ土地に放り出された。二年以上もの間、泥まみれになりながら、街から街へ、必死で旅を続けてきた。
    それでも自分の家の手掛かりさえ掴めない。知り合いも助けてくれる人もいない。警察も役に立たない。そんな絶望的状況の中で。
    この人は、なぜこんなに明るく、こんなに無邪気に、こんなに透明に、笑顔で話をすることができるのだろうか。
    自分には無理だ。自分が同じ状況なら、きっととっくの昔に発狂している。なにしろ、部活で虐めにあっただけでここまで人生が狂ってしまうような人間なのだから。
    そこまで考えて、やっと梓は怒りの意味を理解する。
    私は悔しいのだ。この少女に、お前は弱い人間だと言われているようで。虐められていた頃を、自分は世界で一番不幸だと思っていたあの頃を、笑われているようで。
    お前よりもっと不幸な目に遭っても、お前と違って明るく生きている人間もいると、教えられているようで。

    34 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:46:35.55
    薄明かりに照らされた時計の短針は、もうそろそろ三の数字に近づこうとしている。風はますます強く、容赦なく、二階建てのオンボロアパートに吹き付ける。

    「…あれ、あずにゃん、黙り込んでどうしたの?怒ってる?」
    「い、いえ。そんなことないです、それより…」

    梓は慌てて、首を振って誤魔化す。
    それより…の先に続けるべき言葉。何が良いだろう。早く寝ましょう、か。うん、そうだ、それがいい。
    このまま話が続けば睡眠時間が削られるばかりだ。本格的に明日の仕事に響く。この少女も…唯さんも、寝不足のまま外に放り出されるのは辛いだろうに。
    そんな事を考えるが、梓の口から自然と出てきたのは、それとは全く別の言葉だった。

    「それより、綺麗でしたか?星は」

    「え?」
    「海辺の街で寝転がって、星を見たんでしょ。その星空は、どんな風だったんですか」

    私は、いったい何がしたいのだろう。そんなことをいちいち聞いて、それが何になると言うのだろう。
    が、唯は心底嬉しそうに
    「うん、綺麗だったよ!ちょうど夏だったからさ、天の川が見えた」
    「天の川ですか…織姫と彦星の」
    「そうそう!その織姫様と彦星様を探したりして…あ、あずにゃん知ってる?織姫様はベガって星で、彦星様はアルタイルって星なんだよ。
    それで、デネブ、アルタイル、ベガの三つの星を合わせて、夏の大三角って呼ぶんだよ」
    「へえ、そうなんですか。全然知りませんでした」
    記憶はないけれど、そういった知識は頭の中に残っているのだろうか。そういう記憶喪失の仕方も珍しくないと、テレビでどこかの教授が話していた気がする。

    35 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:48:03.10
    「ここからは、あんまり星が見えないねー。今の時期なら、うお座とか、みずがめ座とか、見えそうなんだけどなぁ」
    唯は窓の外に浮かぶ夜空を見て、呟く。
    「この街は夜でも明かりが多いですから…仕方ないですね」
    「この街は大きいよね。今まで私が来た中で一番大きいかも」
    「そうですか。唯さんが今まで行った街はどんな感じでした?」
    「色んなとこがあったよー。北へ南へ西へ東へ、デタラメに歩きまくってたからね。ほんとに色んな街を旅してきたと思う。例えばね…」

    唯は語る。優しく言葉を紡ぐ。梓は相槌をうちながら聞いている。活気溢れる港町の話。自然に囲まれた田舎町の話。この街と同じように、人口の光に包まれた大都会の話。
    唯の口から発せられると、不思議とその全てがかけがえなく綺麗なもののように思えてくる。この世界に絶望していた梓にとって、それは新鮮で、眩しくて、羨ましい。
    もっと、ずっと耳元で聞いていたい。そんなことを考えている自分が、確かにここにいた。

    36 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:50:13.53
    「えへへ、あずにゃーん」
    「わっ…」
    唯がいきなり抱きついてくる。甘い香りと温もりに包み込まれる。
    心地よい。心地よくて、梓の体から力が抜ける。なんなんだろう。この感覚は。さっきまでの自分なら、容赦なく拒絶していたはずなのに。
    今日は未体験のことばかりで、新しい感情ばかり湧いてきて、頭が心にうまくついていかない。理解が回らない。
    だけどよく考えると、その感覚は…人の温もりは、今までずっと自分が渇望していたものなのかもしれなかった。
    逆境から逃げるために、部屋に引きこもって、自分から孤独になって。それでも完全に孤独になることに耐えきれなかった普通の人間の姿が、ここにあった。

    「な…なんのつもりですか。ベタベタしないでください、もう…」
    「えへへ、あずにゃんの誕生日プレゼントですよ、いい子いい子」
    「子供扱いしないでください…私の誕生日はとっくに終わってますしもう十九歳です!たぶん唯さんとそう変わらない年のはずです!」
    梓がムキになると
    「そっかー、私って本当は何歳なのかなぁ…」と唯。
    「あ、そっか、生年月日も、やっぱり…?」
    「うん、さっぱりわかんない」
    「そうですか…」

    「だから、誕生日プレゼントってのを、まだ貰ったことがないんだ。くれる人もいないし、いつかわかんないから、貰いようがないよね、あはは…」
    唯は笑う。今までと少し違う顔で。今にも崩れそうな顔で。こんなに悲しそうに笑う人間を、こんなに寂しそうな笑顔を、梓は初めて見た。
    腹が立つ。今日この場に限っては、感情を理性で解釈しようとしても無駄だということをさすがに梓はもうわかっていた。だからあれこれ考えないことにした。
    ただ、この人がこんな顔をしているのは、なぜだか許せない。この人はそんなキャラではないはずだ。許すことができない。
    だから梓は、唯の両腕を振り払って、がばりと跳ね起きる。暗い部屋。いきなりの出来事に驚く唯に向かって。窓の外の薄明かりをバックに、叫ぶ。

    「じゃあ誕生日なんて、私たちで勝手に決めちゃいましょう!!」

    37 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:52:13.32
    「…ほぇ?」
    何を言っているのかさっぱりわからないといった顔で、首を傾げる唯。

    「だから、誕生日なんて今、テキトーに、決めればいいんです…そうだ!もう今日にしちゃいましょう。唯さんの誕生日はこれから今日、十一月二十七日です。いいですね!」
    「今日が、誕生日…?」
    「ええ、私がさっきあげたおにぎりと、ラーメンと、お風呂と寝床。これが誕生日プレゼントです」
    「えーと、それはどういう…」
    「ほら!誕生日プレゼント貰ってるじゃないですか!サイコーじゃないですか、ホームレスの行き倒れでも誕プレぐらい貰えるんですよ。簡単に貰えるんです!何が貰ったことないですか、ナメないでください。だからそんなに…」
    「そんなに?」うろたえる唯に向かって、梓は拳を握りしめ、歯を食いしばるように一言

    「そんなに悲しい顔は、やめてください…」

    はっ、と。唯が息を呑む音が聞こえる。
    梓は言うだけ言うと、下を向いて黙りこんでしまう。
    まるで別の生き物のように意味不明の理論をまくし立てた自分の口が怖かったから、ではない。ただただ目の前の少女の頼りない姿が、悲しい顔が、心の奥にずしりと響いたから。
    そして、
    「…うん、ごめんね、あずにゃん」

    今度は正真正銘、最高の笑顔で、唯はそっと囁いた。

    38 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:53:38.20
    その顔を見て、梓の中でなにかの決意が固まる。

    「…と、いうわけで、誕生日おめでとうございます、唯さん」
    「うん、ありがとう」
    「それと、大事なことがもう一つ。誕生日プレゼント第二弾をたった今考えつきました」
    「おお!なんでしょう」唯は目を輝かせる。
    「一時的に、この部屋に居住する権利をプレゼントします。行くアテが見つかるまで、ここに寝泊まりして下さい」
    やめておけ、これ以上関わるなと理性の警告は続いていたが、既に梓の中の決意は聞く耳を持っていなかった。
    このまま唯を行かせたら、この先またどこかで、昨夜のような状態で行き倒れるかもしれない。『赤の他人』の、そんな姿を考えるだけで、みぞおちの奥が苦しくなるのだ。
    それに、何かもっと根本的なところで、この少女には出て行って欲しくなかった。それもどういった感情なのか、梓には説明がつかなかったが。

    けどそれを聞いた唯は複雑そうな、本当に複雑そうな顔で「あ、ありがとう、ありがとうなんだけど…私はまだ旅をしなきゃ…」

    「わかってます。家を探すんでしょ。だから、行くアテが見つかるまでって言ったじゃないですか」
    「ほぇ?」
    「冷静に考えてみてさい。このままアテもなく放浪して、本当にどこにあるのかもわからない家が見つかると思いますか?」
    「………」
    「それより、ここに腰を落ち着けて、記憶を蘇らせるための努力をしたほうが現実的じゃないですか?ここなら、私も何かしら協力できますし。ふとしたことで記憶が戻るかもしれませんよ」
    唯はそんなこと今まで考えもしなかったというような、驚きの表情を見せる。

    「…いいの?ほんとにいいの?ほんとに?」

    「どんとこいですよ。これからよろしくお願いします、唯さん」

    「あ、あずにゃーん、君はほんとうにほんとうに、私の恩人だよぉ、ありがとう」
    例の、ひまわりの花が開いた笑顔を見せながら、唯が抱きついて頬ずりをしてくる。
    「だ、だから、抱きつくのはやめてくださいってば…」迷惑そうに引き剥がそうとしても、唯はなかなか離れてくれない。
    きっと、本当は不安だったのだろう。不安でないはずがない。
    いかに慣れているとはいえ、これからの極寒の季節に、まだ二十歳かそこらの少女が外で一人で生きていかなければならないのだ。出来ることなら、安心して帰れる家と温かい寝床があったほうがいいに決まっている。

    39 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/20(土) 23:55:42.39
    もはや温かいを通り越して暑苦しいと感じるほど梓を抱きしめながら、唯はふとこんなことを言う。
    「あ、そうだ、あずにゃん」
    「はい?」
    「その唯さんって呼び方は、なんかちょっと距離を感じるよぉ」
    だって、つい三時間前に知り合ったばっかりじゃん…色んな意味であんたの距離が近すぎるんだよ、というツッコミは、この空気ではしないほうがよかろう。
    「だって、名字知らないし、見たとこ年上だから呼び捨てやちゃん付けにするのは抵抗があるし…」
    「うーん…呼び捨てでもいいんだけどなぁ」
    「『おい』とか『ねぇ』とかでいいですかもう」
    「それはもっといやだ!」

    「うーん…あ、年上だし、『唯先輩』でどうですか」

    半分冗談のつもりで言った梓だったが、唯は
    「それだ!それだよあずにゃん!先輩って響き、なんかすっごく好きだよ!」
    「ま…まじですか?」
    どうやら決定のようだ。

    先輩って響き、か。梓にとっては思い出したくない最悪の響きだが、唯にとってはそこまで甘美に聞こえるのだろうか。
    唯が中学や高校に行っていたかどうかは定かではないが、例えばそういった場所で何らかの部活に所属していて。
    そしてその部活には、唯がとても慕っている後輩がいた。もしくはそういう後輩の出現を唯が強く望んでいた。
    そんな思い出が、もし唯の失われた記憶の中にあったとしたら。『先輩』と呼ばれることに本人もよくわからない無意識の幸福感を覚える、ということがあったりするのだろうか。
    梓に詳しいことはわからないが、そういった無意識からのアプローチをかけることで、失われた記憶を再び呼び戻すことができるかもしれない。

    「しょうがないですね。じゃあ、唯先輩…」と梓は話しかけようとして、やめた。
    梓より数センチ背が高いはずのこの困った先輩は、体をくの字に折り、梓の胸に顔を埋めて安らかな寝息を立て始めている
    寝るのも一瞬か。しかもタイミングが自分勝手すぎる。
    梓はまた、本日何度目かわからない溜め息をつく。子猫でも眺めるように微笑みたかったが、顔の筋肉は笑顔の作り方を覚えていなかった。何年もの間、そんな表情を作ったことがなかったから。


    これが心に傷を抱えた少女、中野梓と、唯と名乗る謎の放浪少女の、出会いの夜だった。

    46 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 00:58:20.40



    次の日。梓が仕事を終えて部屋に戻ったのは、夜の七時過ぎだった。ツインテールの形に結んだ綺麗な黒髪を、相も変わらず強い北風にはためかせながらドアを開ける。
    急激な冷え込みに体を震わせながら路地を歩いてきたが、部屋に入るとエアコンが効いていて暖かかった。
    が、それにしても変な臭いがする。まるで何かを焦がしたような…
    ふいに、備え付けのガスコンロの前にエプロンをつけて立っている唯の姿を目にする。

    「唯先輩?なななな何をやっているんですかあなたは」
    まさか、と戦慄する梓に、唯が一言

    「晩ご飯作ろうとしたけど、失敗しちゃった。てへっ」

    「うああああああ!てへっ、じゃない!なんですかそれ真っ黒焦げじゃないですか!」
    「だってー、あずにゃん家にタダで居させてもらって何もしないのは、さすがに悪いと思ったから…」
    両手の人差し指をくっつけて、申し訳そうに弁明する唯。
    梓は溜め息をついて
    「はぁ…そんなこと、別に気にしなくてもいいんですよ。まあ、いいです。気持ちだけありがたく受けとっておきます」
    「うう…ごめんねえ」
    「晩ご飯ならコンビニで買ってきたので、それを食べましょう。あったかいですよ」
    と梓は、湯気の立つ美味そうなおでんをテーブルの上に出す。
    「ははーっ、ありがたき幸せ!」

    47 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 01:00:11.03

    「ところで、唯先輩」
    「はふはふ。なあに?」
    唯は熱くなった具を一気に頬張って、口の中から湯気を出しながら話す。

    「今朝話したあれ、何か発見とかありましたか?」
    「はふはふ。あふい、あふい」
    「一気に食べるからそうなるんですよ…」

    やっとの思いで具を飲み込むことに成功した唯は、思い出したように
    「ああ、丁度いろんなとこを見てる途中だったんだよ、ほら」
    唯の視線の先には、電源がついたままのパソコン。

    あれ、と言うのは、いわゆるGoogleマップであった。街中の風景をリアルタイムで映すストリートビュー。サービス開設当初はアメリカの主要都市でしか実施されていなかったが、今では日本国内でも相当数の街の風景を、この場にいながら見ることができたはずだ。
    なぜそんなものを片っ端から唯に見せようとしたかと言うと、やはり梓が『無意識からのアプローチ』に唯の記憶を取り戻す可能性を見出したからだった。
    自分が日常的に見ていた風景、好きだったこと。そういったものは、記憶には残っていなくても無意識、潜在意識の中にはちゃんと刻まれているものなのではないだろうか。
    だから、昔住んでいた街の風景を、パソコンのモニタを通してもう一度見ることによって、記憶が完全に戻らないまでも何かピンとくることくらいはあるのではないか、と考えたわけだ。

    「今のところ、まだ手掛かりはナシ、ですか」
    「うん…」
    「まあ、焦っても仕方がないですし。気長にいきましょうよ」
    「ん、そーだねあずにゃん、よーし、もっともっと食べるぞー!あずにゃんの分まで!」
    「ちょ、そこは遠慮してください!」

    唯と二人で食べる晩飯は、なかなかに騒がしく、慌ただしく…そして、心地がよかった。

    48 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 01:02:13.29
    「ねぇ、あずにゃん。昼間からすっごく気になってなってたんだけど、あれはなに?」

    満たされぬことを知る者だからこそできるのだろう、晩飯をたらふく食べたあと、唯が見せる表情はこの世に並ぶものがないほど幸せそうだ。
    これから、飯のたびにこんな顔をされていてはたまらないと、梓は思う。
    そんな唯が、部屋の隅に寝かされた無機質なハードケースを指さして、訊ねてくる。

    「ああ、あれは私の宝物です。見ますか?」
    「た、宝物?よ、よかったー、我慢できなくて、勝手に開けちゃいそうになるのを必死で我慢してたんだ」
    「別に勝手に触ってもいいですけど…大事に扱って、弾いたあとは弦を綺麗に拭いておいてくれれば」
    梓の小さな手が、宝箱の蓋を開ける。
    「弾く?」
    「楽器ですよ、楽器」
    中から、ピカピカに磨かれた赤いじゃじゃ馬が顔を出す。

    それを、そのムスタングを一目見て、唯の顔色が変わる。

    「それは…それは、ギター、だよね、あずにゃん」

    「ええ、ムスタングっていうギターなんです。私が小さい頃から使っているやつなんですけど」
    「お願いあずにゃん、それを、ちょっと貸してほしいんだ。何でかわかんないけどそのギターって楽器、すっごく懐かしい感じがする」
    そう懇願する唯は、いつになく、真剣な面持ち。まるで、何かを思い出そうしているかのような。
    まさか…?梓は慌ててストラップの長さを唯の身長に合うよう調整し、彼女に手渡す。

    49 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 01:05:08.47
    唯は賞状でももらうようにゆっくりと赤いボディを受けとる。ストラップはかけずに、腕だけで重みを支えて、ベッドの上に腰掛ける。
    その持ち方が、なんだか素人のものには見えなくて、梓はおずおずとピックを渡す。

    唯の左手が迷うように弦を撫でる。何かを必死に呼び戻すように目を閉じている。
    やがて、「最初は…最初は、A、から」という呟きが聞こえたかと思うと、ふわふわと力のこもっていなかった左手が、急にしっかりと弦を押さえる。二フレットの、二弦、三弦、四弦。驚いた。まぎれもないAコードだ。
    右手がゆっくりと、ピッキングを始める。暖かい部屋に、綺麗な和音がこだまする。
    そして遅れて、歌声が響く。子供の天使が歌っているような声。

    「キミがいないと何もできないよ キミのご飯が食べたいよ」

    歌いながら少女の左手は、そこからD、E、そしてまたAへと。優しく、けれどしっかりと形を変えてゆく。
    簡単なコード進行ではあるが、心を打つようなメロディに、梓は思わず聴き入ってしまう。

    「もしキミが帰ってきたらとっびきりの笑顔で抱きつくよ
    キミがいないと謝れないよ キミの声が聴きたいよ
    キミの笑顔が見れれば それだけでいいんだよ
    キミがそばにいるだけで いつも勇気もらってた」

    50 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 01:06:02.15
    歌っている唯の目から、いつの間にか大粒の涙がポロポロと零れ落ちていた。
    ギターの音と共に流れ出す、宝石のような雫。震える天使の歌声。
    悲しいのだろうか、辛いのだろうか、きっと違う。それならこんなに、美しい涙にはならないだろう、と梓は思う。
    彼女の涙には、もっと優しい出どころがあるような気がして、胸を締め付けられたまま言葉をかけることができない。

    「いつまででも一緒にいたい この気持ち伝えたいよ
    晴れの日にも雨の日も 君はそばにいてくれた
    目を閉じれば君の笑顔 輝いてる」

    51 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 01:20:08.60


    冷たい外の風。窓から入り込む月明かり。
    暖かな空気に満たされた六畳間で、寄り添う二人の少女。
    ツインテールの少女の肩にもたれる、真っ赤な目の少女。

    「びっくりしました。唯先輩、ギターも歌も上手いじゃないですか」
    「そーかな?」
    「そーですよ。何か思い出せましたか?」
    「私が今弾いた曲は、『U&I』って曲。私が昔作った曲。だけど、わかったのはそれだけ。その頃の思い出とか、私がなんでギターを弾けるのかとかは、ぜんぜんわかんないよ」
    「うーん、私にも詳しいことはよくわかりませんけど…」

    「この曲は、唯先輩が大切な誰かのために作ったものなんじゃないですか?」

    「そうかも。この曲のサビを歌ったとき、その誰かの顔が浮かんでくる気がしたんだよ」

    「笑顔が、ですか」
    「うん…」

    「なら、その人は今も、笑顔で唯先輩のことを待ってますよ、絶対に」
    「そうだよね!私がその人のところへ帰っても、きっと…とびっきりの笑顔で出迎えてくれるよね!」
    「ええ、きっと」

    祈りにも似た唯の言葉。それに呼応する梓の声が、じんわりと部屋中に染み渡ってゆく。どこかでクラクションの音が聞こえる。

    「えへへ…あずにゃん、そのギター、これから好きなときに触らせてもらっていい?」
    「いいですよ。今度一緒に、楽器屋にも行ってみましょうか」
    「うん!」

    人が涙を流したあとに見せる微笑みは、綺麗に見えるものだと、梓は思った。

    52 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 01:21:25.63



    それから唯は、ギターを弾くようになった。
    昼間、梓が仕事に行っている間に、梓の持っているCDを片っ端から聴き漁って、気に入った曲を耳コピしている。
    そして梓が仕事から帰ってくると、嬉しそうにその曲を弾いて聴かせてくれるのだった。
    かなりの音感とセンスがあるのか、耳コピの速度が異常に速い。梓が何十回も聴かないとわからないコードを、唯は一回聴いただけで簡単に弾けてしまう。
    演奏技術や音楽的知識は断然、梓のほうがあるが、そこらへんの才能は間違いなく唯が上だった。
    昔弾いていたオリジナルの曲も思い出せるらしく、ふでペンやらホッチキスがどうのこうの、という非常に謎な歌詞の歌を時々歌っている。

    今日はどの曲を弾いてくれるのだろう、と、梓は予想しながら帰途につく。それが結構、楽しくなっていた。

    唯と二人で暮らすようになって、梓が飲む薬の量も、飛躍的に減っていた。
    隣に唯がいれば、ハルシオンを飲まなくても眠れたし、レキソタンなど飲まなくても不安な気持ちを紛らわすことができた。
    とにもかくにも唯の存在が、梓を確実に変えつつあることは確かだった。


    そして、週末。

    55 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 01:35:08.90
    「起きてください。唯先輩、唯先輩?」
    南向きの窓から陽光が射し込んでいるということは、もう昼間に近い時刻であるということを意味していた。もっと早くに起きるつもりだったのだが、どうやら昨日、遅くまでネットで調べものをしていたため、寝坊してしまったらしい。

    「う、うーん…あと五時間…」
    「ふざけるなです。とっとと起きてください」
    梓はそう言うと、唯がかぶっている毛布を容赦なく引き剥がす。少女はダンゴ虫みたいに丸まって、ぶるぶると震える。
    「うう…あずにゃんのおにー、あくまー」
    「何言ってるんですか。今日は唯先輩が起きなきゃ始まらないんですよ?」
    「ほぇ?」

    「楽器屋、行くんでしょ?」

    56 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 01:35:58.82



    休日の昼間に外出するなんて、どれだけぶりだろうか。
    昨夜降った初雪が、まだ街のそこかしこに残っていた。冬の陽が水溜まりに反射して、梓は思わず目を細める。

    唯は少し窮屈なブーツを吐いて、水溜まりの上をピチャピチャと飛び跳ねて、笑う。長い睫毛とヘアピンが、綺麗に光る。
    何やってんですか、私の靴を汚さないでください、と梓は膨れてみせる。

    アルバイトがビラを配り、学生がはしゃぐ午後。


    この楽器店に来るのは、街に来てから何度目だろうか。前来たのは三ヶ月前。きっとそれが最後の昼間の外出だろう。
    ギターのメンテナンスをしてもらい、消耗品のピックや弦を買い溜めした。
    CDや楽譜などは基本的にネットで取り寄せるため、そういった用事以外では基本的にお世話になることはない。
    自動ドアが開く。唯が大はしゃぎで中に飛び込んで行く。梓も続いて店内に入る。
    カウンターから、初老の店員がこちらを一瞥する。多分、私の顔も覚えてはいないだろう。あのムスタングを見せれば思い出してくれるかもしれないが。

    58 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 01:37:09.32
    「ねえあずにゃん、見て見て!これ何だろう?」
    さっそく店の奥から、梓を呼ぶ声が聞こえてきた。はいはい、何ですかと言いながら唯のそばに行くと、彼女は機械の箱のようなものを手にとって眺めている。

    「ああ、それはチューナーですよ」
    「チューナー?」
    「私の家にもあったでしょ。唯先輩には、必要のないものみたいですけど」
    チューナーとは文字通りギターのチューニングを合わせる機械のことだが、驚いたことに唯はチューナーもピアノも使うことなく、自分の耳だけで正確に六本の弦の音を合わせてしまうのだった。
    梓だって正解に近い音くらいにはできるが、唯の場合は、彼女が適当にちょちょいとチューニングした直後にチューナーで計ると、全ての弦が正確に、寸分の狂いなくミ、ラ、レ、ソ、シ、ミとなっている。絶対音感があるとしか思えない。

    そんなことを考えていると、隣にいたはずの唯がいつの間にかいなくなっている。
    後ろを振り返ると、今度は店の入り口のほうで、一本のギターと睨めっこしていた。その表情は、とても真剣だ。

    59 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 01:39:03.30
    「今度はどうしたんですか?」
    「これ…このギター、かわいい。すっごいかわいい」
    そう言ってハァハァしている唯の視線の先には、チェリーサンバーストのギブソン・レスポール・スタンダードの姿。
    レスポールを見て、格好いい、と思うことこそあれかわいい、とは普通思わないだろうに…つくづく、この人の感覚はわからない。
    驚くべきはその価格で、なんと二十五万円。別に楽器店では珍しい値段ではないが、旧式のスタンダードが二十五万というのはいささか高過ぎるのではないだろうか。

    が、そのギターを見る唯の目は、もうこれが欲しくて欲しくて仕方ない、と言っているかのよう。

    別に楽器店を見に来ただけであって、ギターを買いにきたわけではないのだが…
    しかもこんな高いもの、絶対に買えるわけがないし。

    63 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 02:03:47.11
    そんな梓の考えを察知したのか、唯は
    「べべ別に買おうとかは言ってないよ!うん、そんなバカな、あはは」
    「当たり前です」
    「でも本当、かわいいなぁ。もし買ったら服着せて、添い寝するんだ」
    「いや、そこは弾きましょうよ!」

    廉価版のエピフォン・レスポールも近くに置いてあったが、そちらには目もくれようとしない。唯に良いギターとそうでないギターが見分けられるとは思わないが…まさか値段で選んでいるわけでもあるまいに。

    「唯先輩、そっちに同じタイプのレスポールがありますよ?」
    「え?うーん…あれも可愛いんだけど、なんか違うよね。なんか、この楽器店でこのギターだけが光り輝いて見えるんだよ」
    唯は、見ているだけで幸せと言わんばかりに目を輝かせている。
    「光り輝いて、ですか…」

    梓は考える。唯がここまでの執着を見せる理由はなんだろう。例えば、彼女が昔欲しくて欲しくてたまらないギターだったり。もしくは本当に彼女の愛用ギターだったりしたのかもしれない。
    ギタリストが自分の好きなギターに寄せる愛着を、梓はよく分かっているつもりだ。
    それは値段が高いとか安いとか、そういう問題ではない。自分の気に入った音。気に入った形。気に入った雰囲気。それさえあれば、もうそのギターは自分の宝物だ。梓にとっては、それがムスタングだった。
    唯にとって、その宝物がレスポールだったのだとしたら。

    64 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 02:04:46.69
    梓は静かに問う。

    「唯先輩…絶対にお金、返しますか?」

    「ふぇ?」
    「唯先輩が、いつか自分の家にたどり着けたら、二十五万、耳そろえて私の講座に振り込んでください。約束できますか?」

    「え?え?もしかして…このギター買ってくれるの!?」
    ぱあっと。そんな言葉が本当に聞こえてきそうなほど、唯の表情が変わる。

    「別に、ちょっとお金を貸すだけですよ」

    まあ、ちょっとどころではないが。働きだしてからコツコツと貯めてきた貯金の総額が、丁度それくらいだった気がする。
    これを下ろしたら、多分来月の家賃や水道代を払えなくなってしまうが。
    何とかなるだろう。実家に泣きつくなり、家にあるものを売るなりして生計を立てれば。
    つい一週間前に出会ったばかりの他人のために…自分でも馬鹿馬鹿しいとは思うが、今このスタンダードを買わなければきっと後悔すると、直感が告げていた。

    ありがとう、本当にありがとう、と何度も何度も繰り返す唯を店内に待機させて、梓はコンビニのATMに走った。

    65 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 02:06:29.81
    遅い昼食を食べ、街をぶらついていたら、いつの間にか夕方になっていた。
    梓と唯は、少し遠回りして行きとは違う道を通る。
    唯の背中には、レスポール・スタンダードの入ったハードケース。
    店員の説明でわかったことだが、このギターは、どうやらヒストリック・コレクションのトラスロッド・カバーをスタンダードに付け替えたものだということだった。
    それで二十五万円というのは、逆に格安ではないか。そう考えると、非常にいい買い物をしたのかもしれない。

    「わああ、綺麗な海だね、あずにゃん」
    「どこがですか…」
    防波堤の上から眺めたこの街の砂浜は、ゴミだらけでお世辞にも綺麗とは言えない。ここに寝転んで星空を見ろと言われても、梓には多分できないだろう。
    ただ、海も砂浜も防波堤も染め上げる、緋色の夕暮れは美しいと思った。
    汚れた海も、一瞬にして美しく変えてしまう魔法の光。まるで自分にとっての唯先輩のようだ、と考えかけて、なんだか梓は恥ずかしくなる。

    手を繋いで歩こう、と唯が言う。寄り添うように並んだ二人の影が伸びていく。

    「ねえ、きっとこの海は、私の最初の記憶にある街の海と繋がってるよ。ね、あずにゃん」
    「そりゃここは日本ですから…繋がってはいるでしょうね」

    何気ない会話を繰り返しながら、二人は歩いていく。
    しばらくの間、雪は降らないでしょう、と、どこかの家から天気予報のお姉さんの声が聞こえた。

    66 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 02:07:52.22
    その日の夜。
    まだフィルムも剥がしていないギターを持って、唯が床の上にあぐらをかく。
    梓も自分のムスタングのチューニングを合わせて、唯と向かい合うようにベッドの上に座る。
    オーディオのスイッチを入れる。スピーカーから音楽が流れる。
    ポップなドラムス、柔らかく、美しいストリングス。梓の大好きな曲。唯のおかげでコピーすることが出来た曲でもある。
    その曲に合わせて、二人はギターを鳴らす。そして、歌う。

    『Just a little kiss 覚えてる?
    あの道をずっと歩いたら
    そよ風も雨の日も 愛おしく思うから』

    どことなく歌詞が、唯の作った『U&I』という曲に似ているような気がする。
    昔、一人で聴いていた時にはただ、いい曲だとしか思わなかったが、今はなにより温かく、優しい曲だ、と思う。
    これも、愛おしい誰かを想って作った歌なのだろうか。そうやって作られた曲は、みんな自然と優しいメロディになっていくのだろうか。

    ムスタングの歯切れの良い音色と、レスポールの艶やかな音色が溶け合って、部屋中を満たしていく。
    その中で二人の歌声が、綺麗なハーモニーを作り出す。

    『Like a little bird 青い空
    あなたの肩に舞い降りて
    歌い始めるの きっと 耳を傾けていて
    いつまでも ずっと』

    梓の夢。いつか誰かと一緒に、楽器を演奏したいという、幼い日の夢は、こうして思わぬ形で現実となった。
    梓は、唯と顔を見合わせながら、いつの間にか自分が笑っていることに気づいた。さして驚きはしなかった。この人となら、この人といれば、いつか心から笑える日がくるかもしれないと、そう思っていたから。

    幸せな、夜だった。

    67 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 02:09:43.45
    第二章、終了しました。
    これでまあ半分よりやや先、といったところでしょうか。
    引き続き支援、よろしくお願いします。

    71 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 02:43:10.68
    次の週の、金曜日。
    ギターを買った日からしばらくは安定して暖かったのに、その日は朝から急激に冷え込んでいた。雪は降らないらしいが、代わりに乾燥した冷たい空気が肌を刺した。


    梓は昼休みになっても一人、会社のパソコンと睨めっこをしていた。
    家では唯が騒がしくて、なかなか落ち着いてパソコンができない。だからこうして、一人になれる時間にネットを使って調べておきたかった。
    何を調べているのかというと、一昨年の夏あたりの新聞の記事だった。知らない街で記憶を失ったまま倒れていたという異常な状況から、唯は何かしら事件に巻き込まれた可能性が高いと、梓は考えていた。
    日本全国各地の無数の記事の中から、唯に関係のありそうなワードで絞り込み検索をかける。
    ゆい、ギブソン、レスポール、記憶喪失、など様々なワードを試してみたが、何一つ引っかからなかったり、逆に引っかかる件数が多すぎたりして、今のところ芳しい成果は得られていなかった。

    少し諦めかけていた梓の脳内に、突然、唯の言葉が蘇える。

    「それだ!それだよあずにゃん!先輩って響き、なんかすっごく好きだよ!」

    72 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 02:44:18.71
    ん?待てよ。先輩って響き…
    その響きから梓の脳裏に浮かんでくるのは、地獄のような部活動の思い出だけだ。もっとも、唯のことを唯先輩、と呼ぶ時には、不思議とそんな忌まわしい光景が頭に浮かぶことはないのだが。

    それにしても、先輩、部活動。何故かギターを弾ける唯。その言葉の連鎖は、ふと梓の中に一つの想像を形作っていく。まさか…

    唯先輩も、私と同じでどこかの学校の軽音楽部に所属していた?

    思えば、無意識のうちにその悪夢のようなワードを、頭の中で封印していたのかもしれない。
    梓は『ゆい 軽音楽部』で、祈るようにもう一度絞り込み検索をかけてみる。
    検索エンジンが起動する。

    73 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 02:45:22.85



    「そんな…そんなことって…唯先輩…」

    梓は青ざめていた。吐き気がした。
    体中の力が抜けていた。立つことも、指先一本動かすこともできなかった。

    視線の先には、一昨年の七月二十五日の記事。
    そこには、無機質に、無感情に、ただ起こったことだけが文字になって書き連ねてある。


    『昨日昼ごろ、桜高校軽音楽部が夏休みの旅行に使用したクルーザーが突然の嵐で転覆し、一名が行方不明となった。
    行方不明になっているのは、軽音楽部のメンバーである平沢唯さん。他のメンバーは骨折などの重傷を負ったが、命に別状はないという。警察は海上保安庁と協力して、唯さんの捜索を続けている。
    桜高校の軽音楽部のメンバーら四人は、夏休みを利用して合宿を兼ねた旅行を計画。メンバーの一人が所有する島の別荘へ、クルーザーで乗り付けようとしていたという。』

    74 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 02:46:59.20
    その十数日後の記事は、平沢唯さんの生存が難しいとされ、捜索が打ち切られた旨を伝えていた。

    つまり、唯先輩はクルーザーで事故に会い、嵐の中を遠く離れた街の砂浜に流れついて奇跡的に助かったが、ショックで記憶をなくしてしまった。そして誰にも発見…というより認識して貰えず、月日が立つうちに世間もその痛ましい事件を忘れていった…ということなのだろうか。

    間もなく昼休みが終わるというのに、梓の頭は混乱したまま、その場を動くことができない。
    桜高というのは、梓の実家がある街の女子高ではないのか。私は自分の街で起きた事件のニュースすら伝わってこないほど酷い引きこもり生活を送っていたということか。

    76 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 02:48:51.22
    その記事には、他ならぬ唯先輩…平沢唯そのものの写真の下に『事故に巻き込まれた平沢唯さんの妹の憂さんの談話』が載っている。
    彼女は「私はお姉ちゃんが死んだなんて信じられません。必ず戻ってくると、戻ってきてほしいと、強く願っています。」と語っている。
    唯先輩の妹にしては、しっかりと丁寧に話す子だ、という印象を受けた。もしかしたら私と同い年くらいだろうか。

    唯先輩が弾き語っていた、『U&I』という優しい曲が、頭の中で再生される。

    その時に唯先輩と交わした会話も。

    『この曲は、唯先輩が大切な誰かのために作ったものなんじゃないですか?』

    『そうかも。この曲のサビを歌ったとき、その誰かの顔が浮かんでくる気がしたんだよ』

    『なら、その人は今も、笑顔で唯先輩のことを待ってますよ、絶対に』

    『そうだよね!私がその人のところへ帰っても、きっと…とびっきりの笑顔で出迎えてくれるよね!』

    『ええ、きっと』

    77 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 03:06:15.25
    梓は続けて、唯が所属していた軽音部のメンバーの談話を見る。

    ドラムスのTさん「唯はちょっとドジだったけど、場を和ませてくれるムードメーカーでした。私たちのバンドの、最高のギタリストです。唯の代わりはどこにもいません。唯、早く帰ってこい!お前がいないと軽音部はだめなんだ。みんな、ずっと待ってるからな!」

    ベースのAさん「唯の捜索が打ち切られたと聞いて、みんな沈んでいます。私は唯が戻ってくるとまだ信じてます。私達が信じなくなったら、終わりだと思うから。」

    キーボードのKさん「私が悪いんです…救命胴衣が、人数分揃ってなくて…唯ちゃんは優しいから、一人犠牲になって胴衣なしで海に飛び込んで……ごめんなさい、ごめんなさい。唯ちゃん、私を許してください」

    きっと皆、目に涙を溜めて、声を詰まらせて話していたのだろう。その様子が容易に想像できる。
    唯のことを、真の仲間として心配しているのだ。そして唯の生存を信じている。事故から何日たっても。そして、多分今でも。
    このメンバーが先輩たちなら。この軽音部に、もし自分が入っていたとしたら。
    私はもっと、上手くやっていけたんじゃないか。楽しい学生時代を過ごせたのではないか。理由もなく、梓の中の直感がそう告げる。

    昼休みが終わる。静かだった室内に、人がなだれ込んでくる。
    とりあえずその記事のURLを自分の携帯に送り、ブックマークに保存しておく。

    78 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 03:07:33.98
    梓は考える。
    この事を、唯先輩に言うべきだろうか。
    これは難しい問題だ。

    このことを話せば、確かに唯先輩は家に、生まれ故郷の街に帰ることができるだろう。しかし、そこに帰ってきた唯先輩は、全ての記憶をなくしている唯先輩だ。今までの唯先輩とは別人なのだ。そのことに周りはショックを受けるだろう。

    そこまで考えて梓は、机を蹴り飛ばした。置いてあった弁当や飲み物が、床の上に散らばる。一瞬にして、周りの驚きと好奇の視線が集中する。
    無償に腹が立つ。記事の内容を『話すことができない』自分に、ではなく、『あれこれともっともらしい理由をつけて話そうとしない』自分に、だった。

    良いではないか。例え記憶をなくしていたとしても、周りの人達は、これからまた新しい唯先輩との新しい思い出を作っていけばよい。少なくとも、唯先輩がいないよりは数千倍マシだ。
    それに、記事を見せることで完全に唯先輩の記憶が戻る可能性だってあるのだ。見せたほうがいい。言ったほうがいいに決まっている。それが唯先輩を二年以上もの間、突き動かした夢なのだから。

    では、なぜ。私は唯先輩に真相を伝えたくないのだろう。なぜなのだろう。

    …やめろ。それを考えると、考えてしまうと…
    腹の奥が爆発しそうに熱い。

    それは結局、たった一つの自分勝手な理由なのだ。それは…

    79 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 03:12:33.04



    梓が自分の部屋のドアを乱暴に開け放ったのは、午後八時ごろ。
    両手に抱えた袋に入った大量の酒の缶を見て、唯が驚いた顔をする。
    「あずにゃん、どうしたの?そんなにいっぱい、お酒なんて買って。私のギターのせいで生活苦しいんじゃあ…」

    「いえいえ、いいんです、パーティーですよ。楽しいパーティーです」
    そう告げるといきなり、五百ミリリットルの酎ハイの缶を二、三本同時に開けて、一気飲みを敢行する。

    「あ、あずにゃん!やばいって!そんなに一気飲みしたら…」
    唯が慌てて止めにくる。

    なぜ止めるんだろう。止めるな。今日は早く酔っ払って、薬を飲んでどこかにいきたいのだ。そんな気分なのだ。
    今、目の前にいるヘアピンをつけた茶髪の女の顔を見ていると、今すぐ自分の体を刃物でズタズタにしてしまいたい衝動に駆られる。
    だから、その前に我を忘れるのだ。
    「いいから唯先輩、そこの引き出し開けて、薬とってください。早く。」
    「薬?」
    「最近あまり飲まなくなったからしまっておいたんです、でも今日は飲まなきゃいけないんです」
    「え?あずにゃん…どこか具合でも悪いの?大丈夫…」
    「ごちゃごちゃとうるさいです!早く渡してください!」
    今まで聞いたことがないような梓の大声に、唯の体がびくっと縮こまる。心配そうな顔をしながら、引き出しの中の薬をおずおずとまとめて梓に手渡す。
    なぜそんな顔をしてる。やめろ。私は心配に値するような人間ではないのだ。

    梓は無我夢中で、錠剤をいくつもいくつも取り出し、酒で次々と胃の奥に流し込む。

    80 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 03:13:29.95
    「あずにゃん、それは何の薬なの?」
    尋常ならざる梓の様子に疑問を抱いたのだろう、唯は必死に問いかける。

    「ああ、これですか…まあ簡単に言うとドラッグですよ。唯先輩も飲みます?トリップできますよ、トリップ」

    ドラッグ、という言葉を聞いて、唯の顔色がはっきりと変わる。
    梓は狂ったように笑う。
    「だめだよ!あずにゃん!こんなのだめ!」
    「うるさいうるさい、うるさいです」
    酒と薬で、視界がぐるぐると回りだす。
    そこに映る唯は、ゆがんだ輪郭の唯は。


    泣いていた。涙を流していた。


    「あずにゃん、なんで…なんでなの…何かあったんでしょ、辛いことが。だったら、私に言ってよ…」

    大粒の涙。しかしそれは、初めてギターを弾いたときに見せた優しいものではなく、ただただ悲しく辛そうな、くしゃくしゃの顔で泣いていた。

    「なんでこんなことになるの、あずにゃん、だめだよぉ…」

    81 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 03:16:04.46
    辛い、本当に辛い。泣き顔を見るのも、泣き声を聞くのも。みぞおちを冷たいナイフでざくりと刺されたようだ。

    梓は何も持たずに部屋を飛び出した。

    「待って!」
    中から唯が呼び止める声が聞こえる。
    何も考えずにすむよう、全速力で非常階段を駆け下りて、全速力で走る。
    目的地はよくわからない。視界もぼやける。足元もふらつく。
    顔に激突する冷気は、もはや冷たいというより痛いという言葉を使ったほうが良いほどだった。
    路地を駆け抜け、大通りに出る。
    梓の両隣には、動き始めた夜の街。電気街の煌びやかなネオンサイン。車のヘッドライト。歩道橋の上のカップル。レストランの料理の匂い。
    そんな賑やかな街を、息を切らせて走り抜ける。

    そして丁度、体力の限界が訪れたのは、大通りから少し外れた、人気のない公園の前だった。

    82 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 03:17:39.15
    風が吹きつける。
    寒い。とにかく寒い。
    手足の先の感覚がない。
    視界は相変わらずぐーるぐーると回ったり、ぐにゃぐにゃと歪んだり、はっきりと視点が定まらない。
    とにかく休みたい。梓はブランコに腰かけ、はぁ、はぁと荒く呼吸する。



    どれくらい、そうしていたのだろう
    もしかしたら、少しの間意識を失っていたのかもしれない。
    酷い頭痛に耐えきれなくなって目を開けると、隣のブランコに、唯がいた。
    手には、何か湯気の立つコンビニの袋のようなものを持っている。梓の体には、いつの間にか毛布がかけてあった。

    「女の子が泣きながらこっちのほうに走ってったって、人に聞いたから」

    唯は梓の氷のような手に、息を吐きかけながら、言う。

    「唯先輩…」
    なんて、優しいのだろう。なんて、あったかいんだろう。
    なすがままにされる梓は、ぐらぐらと揺れる頭で、唯に一つの疑問を投げかける。

    「なんで唯先輩は、そんなに…優しいんですか…」

    83 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 03:21:21.98
    「なんでって…」

    「なんでこんな私なんかのために、そこまでしてくれるんですか。私にはわかりません…」

    唯は困ったような顔で
    「それならあずにゃんのほうがだよ。何も知らないただの行き倒れを助けてくれて、部屋まで貸してくれて、ギターまで買ってくれて…」


    私は…優しいあずにゃんが大好きなんだよ。


    と、そんな台詞が、凍える空気を震わせて梓の耳に届いた。
    他人から嫌いと言われることはいつものことだが、好きと言われることに、梓は慣れていない。だって、違うのだ。唯先輩の思い描く私と、本当の私…

    「違います、違うんです。唯先輩。世間をナメないで下さい。私が、中野梓が、ただの善意で行き倒れの汚らしいクズをわざわざ助けて、あまつさえ部屋まで提供するような人間だと、本気で思ってるんですか」

    梓は自分を嘲笑するように、問いかける。
    唯は、「え?」と。怪訝そうな顔で梓を見つめる。

    「世間にはね、あんたみたいな本当の善人のほうが、よっぽど珍しいんですよ!
    言ってあげましょうか。大発表しましょうか。私が唯先輩を助けた本当の理由。きっと驚きますよ。あはははは!ざまあないです。
    その理由はですね…」

    そう、それは、その理由は。
    自分が今まで、善人のフリをして胸の内に秘めてきた感情は。

    84 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 03:25:32.58
    「ただ、寂しかった、からです…」
    涙がボロボロと、ひとりでに流れ出す。

    「……」
    「自分が寂しかっただけなんですよ、自分が寂しいから、人の温もりが恋しいから、側にいてもらいたかっただけです。ただそれだけなんです。
    可哀想だから助けたとか、このまま唯先輩を行かせることが耐えきれなかったから部屋に置いておいたとか、そんなごたくは全部、本当の理由をごまかすための嘘です。嘘っぱちの感情なんです!」

    「あずにゃん…」

    そう、その理由がある限り、私の優しさはどこまでいってもただの嘘っぱちの優しさだ。
    唯ちゃんは、優しいから…という桜高軽音部のKさんの言葉を思い出す。
    仲間のために、命の危険を省みず救命胴衣を捨てるような本物の優しさが、私にはたまらなく眩しい。私はそんなもの、これっぽっちも持っていないのだから。

    「それだけじゃありませんよ。私は、唯先輩にそばにいてほしい、寂しいという自分勝手な理由だけで、許されないほど酷い隠し事を今、唯先輩にしようとしています。証拠は私の携帯の中です。絶対に、許されない隠し事です…」

    喘ぐように、絞り出すように、やっとそこまで言う。嗚咽が止まらない。涙が止まらない。胸が苦しい。
    「だから、こんな奴は、もういますぐ手首切って死んだほうが…」

    「私も、ただ寂しいだけだよ!」
    梓の自責の言葉を、唯の大声が遮った。

    89 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 04:35:09.04



    次の日。
    ドラッグと寒さで体調を崩した梓は、夕方までずっと寝込んでいた。
    唯がそばについて看病してくれていたのをぼんやりと覚えている。



    何か漠然とした胸騒ぎが、梓を眠りから覚醒させたのは、もう暗い夕方の六時だった。
    部屋の電気は消え、エアコンが静かに温風を提供している。
    まだ朦朧とした意識の中で、梓はふと感じた違和感について考える。なんだろう。何かがおかしい。
    何の変哲もない静かな夕方のはずだが…


    …ちょっと待て。


    少し、静かすぎやしないか??

    90 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 04:37:33.23
    その疑念が、曖昧だった梓の意識をいっぺんに呼び戻した。
    慌てて起き上がり、周りを見渡す。


    唯がいない。

    部屋のどこにも見当たらない。風呂に入っているのかと思ったが、ユニットバスの扉を開けても肌寒い空間が広がっているだけだった。

    そんな馬鹿な、唯が一人で出かけるということなど、今まで皆無だったではないか。

    ベッドの脇のテーブルには、おかゆが置かれている。唯が作ったのだろう。しかし、おかゆを作っておいて、一体どこへ行ってしまったのだろうか。

    ふと、おかゆの横に、開いたまま置かれた自分の携帯電話が目に入る。梓は、そんなところに携帯を置いた覚えはない。
    何気なくディスプレイを見ると、メールの作成画面だった。何か、文字が打たれている。

    『ごめんなさい。やっぱり我慢できなくなった。みんなに、会いにいきます』


    「え…」
    梓の胸に、黒い濁流のように焦りが到来する。
    震える手で、慌ててラストURLに飛ぶ。梓の記憶が正しければ、今日の朝見た天気予報のページが最後のはずだ。
    しかし、梓の予想を裏切ってか、それとも心のどこかで予期していた通りなのか、現れたページは、携帯に送ったあと一度も開いたことのない、あの事故の記事だった。

    91 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 04:38:28.80
    間違いない。
    唯が、あの記事を見たのだ。唯先輩は、昨日、梓が言った懺悔の言葉を覚えていた。自分は、唯先輩に許されない隠し事をしようとしている。その証拠は携帯にあるという、あの言葉。
    そうして、全てを思い出したかどうかは定かではないが、あの街に、自分の故郷に戻ろう、と。そう考えた。


    相当慌てて飛び出していったのだろうか、レスポールも置いたままだ。ただ、梓の財布から、あの街に帰るために必要になりそうな電車の運賃だけが、抜き取られていた。
    暖かい部屋の中でおかゆが完全に冷め切っているということは、出て行ってからかなりの時間が経過している。今から追いかけても間に合わない。今ごろは、車窓からこの街にお別れを告げているだろう。

    92 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 04:39:34.14
    裏切られた。昨日交わした約束は、あっさりと裏切られてしまった。
    ショックは大きいが、唯を責めることなどできはしない。彼女は彼女の当初からの目的を果たしに、夢を叶えに行ったのだから。

    だからこそ梓は、抑えようのない怒りをどこに向けていいのかわからない。
    薬を飲もうとしたが、生活に最低限必要な分だけを残して、いわゆるドラッグと呼ばれる類のものは昨日全部唯が捨ててしまったのだった。


    いつの間にか、泣きながらギターを弾いていた。ムスタングではなく。唯が置き忘れていったレスポール・スタンダード。
    新品だが、もうかすかに唯の匂いが染み付いたギター。
    唯がこれを買った日に、唯と二人で弾いた曲を、今梓は一人で奏でる。

    嗚咽混じりの歌声が部屋に響き渡る。

    一人が、こんなに寒いとは思わなかった。唯と出会うまでは、それに慣れきっていたから。
    けど唯と出会って、こたつの中みたいに暖かい日常を経験して。
    いざ、こたつを取っ払われた時、初めてその寒さや辛さが身にしみる。

    梓はその晩、暗い部屋の中で、いつまでもいつまでも泣き続けていた。

    93 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 04:40:52.36



    自宅の二階。長年使われていなかったであろうにも関わらず、綺麗に手入れが行き届いたベッドの上で、平沢唯はくつろいでいた。
    懐かしい自分の部屋。
    事件の記事を読んだ拍子に、頭に閃光が舞い降りるように全ての記憶を取り戻した彼女は、何もかもを思い出すことができる。

    憂や和と共に成長してきた、少女時代の記憶。
    軽音部の仲間と過ごした、部室でのかけがえのない時間の記憶。
    そして、地獄のように怖かったあの事故の記憶。

    何故今まで二年以上もの間、忘れていたのかが不思議なほど、鮮明に思い出せる。

    123 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 11:49:44.83
    まったく昨日と今日は、忙しくて愉快な二日間だった。
    昨日の夜、「ういー、ただいまー」と言って私が突然家に帰ってきた時の、腰を抜かして口をぽかんと開いた、憂の表情。まったく面白かったといったらありゃしない。
    けど、次の瞬間には、くしゃくしゃの笑顔で「お姉ちゃん、おかえりなさい」って言ってくれた。嬉しかったなぁ。本当に嬉しかった。
    唯はそんなことを考え、一人でくすくすと笑う。


    それから憂と両親と四人で抱き合ってわんわん泣いたあと、和ちゃんと、りっちゃんと、澪ちゃんと、ムギちゃんと、さわ子先生も家に呼んで、またみんなでわんわん泣いた。

    そして朝まで、飲めや歌えのフルコース。
    宴会は今なお続いているようで、下の部屋からは、さわ子先生のくだらない一発ネタと、りっちゃんの大笑いが高らかに響いてくる。

    ちなみに、二年前に死亡したと思われていた唯の帰還は、マスコミにはまだ知られていないらしかった。取材攻めにあってしまっては大変と、憂や両親が考慮した結果だった。

    94 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 04:42:00.94
    コンコン、というノックの音。
    はーい、と返事をすると、キィ…と、ドアの軋む音とともに憂が部屋の中に入ってくる。

    「お姉ちゃん、あったよ、昔のお姉ちゃんの通帳とカード」
    「ありがとうういー。何円くらい貯金あるかな?」
    「うーん、結構たまってると思うよ。三十万円くらいはあるかな」

    「三十万円か、うん、ちょうどいいや」

    「ちょうど?何に使うの?」
    「ちょっとね。あのね憂、私、明日から、またちょっといなくなるから」
    「え…」
    憂の穏やかな表情が、一瞬にして崩れる。
    無理もない。二年以上も離れ離れで、昨日やっと帰ってきた実の姉が、一日家族と過ごしただけでまたどこかに消える、と言っているのだから。

    95 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 04:44:08.74
    「お姉ちゃん…どこへ行こうっていうの。せっかく、戻ってこれたんだよ?一緒にいようよ。またお姉ちゃんがいなくなるなんて、私…」

    憂が、みるみる涙目になっていく。きっと今下にいるみんなも、こんなことを言ったら憂とまったく同じ反応をするだろう。
    ずき、と心が痛む。だけど…

    「大丈夫だよ、憂。今度は、私はいなくなるわけじゃないからね。
    憂やみんなが寂しくならないように、時々はこっちに戻ってくるつもり。絶対に、約束する」

    「お姉ちゃん、じゃあ、何のために…」



    「旅をする途中で、大切な人ができたんだ。憂や和ちゃんや、軽音部のみんなと同じくらい、大切な人が」

    98 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 05:11:03.67




    陰鬱な鈍色の空から、雨がしとしとと振り続いていた。
    深い霧に街並みが包まれて、重く、深く、沈んでいる。
    何もできない。する気が起きない。
    体調不良と言い訳して会社に休みを貰っていた中野梓は、ベッドから起き上がれず、ただその雨景を眺めていた。

    窓の外の鉛色の粒は、夕方くらいから段々、綿のような白い雪に変わっていった。遠くのビルから聞こえてくる、まだ少し時期の早いクリスマス・ソングが、途端に洒落た音色に変わったような錯覚に陥る。
    夜になっても白の勢いは衰えることなく、しんしんと街に降り積もる。
    摩天楼の煌びやかな光と、雪景色は混ざり合う。詩人がどこかで詩を詠んでいるような、美しい美しい夜。

    一日中飲まず食わずでも、不思議と腹が減らない。自分の体が自分でなくなったようだ。ああ、寒い。心の傷が、ずきずきずきと疼き出す。
    離れていった温もり。
    ああ、なんて苦しいんだろう、なんて辛いんだろう。
    このまま死んでしまいたい。唯先輩がいない街で生きていても、それはきっと虚しいだけだ。このまま…

    ぎゅ、と。
    雪を踏みしめる、足音が聞こえた。

    102 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 05:22:52.20
    梓はびくり、と、ベッドから跳ね起きる。枕元に置いてあったオーディオのリモコンが、はずみで下に落ちる。
    突然、スピーカーから音楽が流れ出す。どうやら電源が入ってしまったらしい。
    美しい、ピアノの旋律。聴くものの心をいきなり揺さぶるような前奏に続いて、透明感のある男の歌声が聞こえてくる。
    これは、この優しいバラードは。



    『Drifter』。


    『交わしたはずのない 約束に縛られ
    破り棄てようとすれば 後ろめたくなるのは何故だ』

    ぎゅ。
    その時点で予感めいたものは、多少あったのだ。
    二階の住人は梓しかいないこのアパートの非常階段を、登る音。雪を踏みしめながら、一歩一歩、登る音。

    『手巻きの腕時計で 永遠は計れない
    虚しさを感じても 手放せない理由がこの胸にある』

    103 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 05:25:26.18
    『例え 鬱が夜更けに目覚めて
    獣のように襲いかかろうとも
    祈りをカラスが引き裂いて
    流れ弾の雨が降り注ごうとも
    この街の空の下 あなたが
    いる限り僕は逃げない』

    ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。
    階段を登りきった足音は、ゆっくり、ゆっくり。梓の部屋に近づいてくる。

    『人形の家には 人間は住めない
    流氷のような街で 追いかけつたのは逃げ水』

    梓はドアの前に立って、中から鍵を開ける。
    絶対にそうだ。そうであってくれ。祈りを込めて、鍵を回す。

    『いろんな人がいて いろんなことを言うよ
    お金が全てだぜと 言い切れたなら きっと迷いも失せる』

    ドアノブが回る。ドアが開く。
    そこには……

    茶色い髪をヘアピンでとめた少女が、雪を纏った白い天使のように微笑んで立っていた。

    104 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 05:27:06.41
    『みんな愛の歌に背つかれて
    与えるより多く 奪ってしまうのだ』

    「あーずにゃんっ、ただいま!」
    ぎゅっ、と、天使の温かい体が梓を抱きしめる。
    「唯先輩…」

    『乾いた風が吹き荒れて
    田園の風景を 砂漠にしたなら』

    梓は何も、考えることができない。ただ彼女を抱きしめ返すことしか、できない。

    『照りつける空の下 あなたは
    この僕のそばにいるだろうか?』

    105 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 05:28:42.18
    「もうーあずにゃん、大袈裟だよー。一日二日離れてただけじゃん。泣かないで?」

    「だって…ぐすっ、唯先輩が何も言わずに出ていくから、嫌われたのかと…もう私のところにいる気はないのかと…」

    「世間をナメないでください、あずにゃん。私はちゃんと、約束を守る女なんだよ?」

    「約束…?」

    『例え 鬱が夜更けに目覚めて
    獣のように 襲いかかろうとも
    祈りをカラスが引き裂いて
    流れ弾の雨が 降り注ごうとも』

    「平沢唯の旅の終着点は、この街だって。Drifterの旅が終わるのは、この部屋だって、あずにゃんと約束したもん!」

    『この街の空の下 あなたが
    いる限り 僕は……』

    106 名前:1 ◆K3/qvvXLP. [] 投稿日:2010/11/21(日) 05:32:16.74
    「そう…でしたね。えへ。えへへへ」
    「うむ。そしてギター代と、あ、行きの電車代もだけど、耳揃えて持ってきたのだ!えへへ、これでギー太二世は晴れて私のものーっ!!」
    「なんですか…ギー太二世って」
    「私のレスポールの名前だよ。あ、あずにゃんのはムスタングだから、『むったん』」とかかなぁ」
    「ちょ…なんですかそれ、勝手に決めないでください!」

    『きっと 素面な奴でいたいんだ
    子供の泣く声が 踊り場に響く夜』

    「それより寒い寒い!中に入れてよぉ、雪まみれでここまで来たんだから。電車は遅れるし、大変だったんだよぉ」
    「そうですね…あったかいココアでも、一緒に飲みましょうか」

    『冷蔵庫のドアを開いて
    ボトルの水飲んで 誓いを立てるよ』

    「飲んだら?」
    「飲んだら?」

    「…いっしょにギターでも、弾こっか」

    『欲望が渦を巻く海原さえ
    ムーン・リヴァーを渡るようなステップで
    踏み越えて行こう あなたと』




    『この僕の そばにいるだろう』

    おしまい

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純「私も徹夜したい」
唯「やっほーみんなー……って、あれ?」
律「そんな唯が、もうすぐ結婚するんだ」
  1. 名前: けいおん!中毒 ◆- 2010/11/22(月) 03:06:36 URL [ 編集 ]
    結局唯の後輩は誰だったんだ
  2. 名前: けいおん!中毒 ◆- 2010/11/23(火) 20:57:48 URL [ 編集 ]
    いいね。
    こういう唯梓もアリだな
  3. 名前: けいおん!中毒 ◆- 2011/01/05(水) 22:59:24 URL [ 編集 ]
    さいっっっっこう!
    いい話だった。
  4. 名前: AA ◆- 2011/01/27(木) 12:12:49 URL [ 編集 ]
    キリンジ好きだからでてきて嬉しいわ
  5. 名前: ◆- 2011/03/16(水) 04:00:57 URL [ 編集 ]
    俺の中で最高傑作だわ


    本当にありがとう

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